私は学生時代を仙台で過ごした経験があるので、
あの日の出来事を到底、受け入れることは出来なかった。
津波にのまれた閖上地区にも行ったことがあるし、仲間と夜の海岸ではしゃいだこともある。
思い出を津波が抉りとって行った、と言うのか、あの場所がこんな事になる、誰しも想像だにはしていなかったはず。
2011年3月11日、忘れたくても忘れられないのは、色んな想いが今でもあるからだ。
前日、とある事故の影響で職場もザワザワしていた。時間どおりに別棟の執務箇所で何ら変わりなく、営業箇所からの問い合わせや、事務作業をしていた普通の日であった。
地震が襲う直前、とある箇所からの電話応対に出ていた。以前の同僚であったので、問い合わせに応じながら近況を聞いていたりしていた最中、揺れが来た。
地震?そっち揺れてない?
いや、こっちはまだ、、、いや、来てますね?
悪い、一旦切る、
と電話越しの同僚に言って受話器を置いた途端、あの激しい揺れが執務室を襲った。
大きく激しい揺れに、身体を持っていかれつつも、落下物などあまりなく長い揺れをやり過ごした後、別室の社員が、
早く外に出ましょう!
と促され、ビルの玄関先に避難。
落ち着いてから、別室をとりあえず片付け、本室に戻ると、非常扉がブラ(ロックが外れた状態)になっており、あちらこちらの機器から警報が鳴り続けていた。
テレビからは地震後の惨状が映し出され、雲行きが怪しい外からは雷の様な爆発音が遠くから響いた。
沿岸部のコンビナートが爆発、炎上し黒煙が立ち込めたらしい。
そこからが、長い長い地震との戦いの始まりだった。家族の安否もさることながら、業務箇所が広範囲にわたるため、各管理セクションが現地の状況、利用客の安否、被害の程度をつぶさに確認して、指示を送っていた。最中に続く余震で警報は鳴り止まず。
刻々と入る情報からわかる現状を上司たちが把握して、対策会議が行われた。
現場からの問い合わせ、今後の対応をとにかく伝え、聞いて対処するばかりで、正直何をしたかさえ覚えておらず、対処に追われていた事だけが頭に残った。
ある程度の収拾がつき始めて、各々の家族の安否を確認できた。幸い、現場も大きな被害はなく、家族も無事だったが、社員の中には東北出身の者もいただけに、心穏やかではなかった。
わずかな休息の時に、仙台にいる友人から電話が入った。被害が大きい東部地区へ車で確認をしに行っていた彼から聞いたのは、嗚咽のような叫び、、、
人が人でない惨状を目にした
多くは聞けなかった。友人の無事だけがせめてもの救いだった。
怒涛の対応も落ち着きを取り戻し、勤務を開放されたのが翌日の昼過ぎだった。
止まっていた電車がようやく動き出し、ほぼ放心だった中帰途についた。
電車に乗り込む乗客のなかには、我関せずのように、はしゃいでいる人がいた。無事を喜んでいる様には到底見えず、他人事のような面持ちと会話に、憤りを感じた。
そうやって自宅に帰ると、家族とネコが無事に自宅にいたことに安堵した。
あの日は、そうやって過ぎていった。
干支がひと回りして迎えた、
2023年3月11日。
今、あの日の事を思い出す。
悲しい事、苦しい事、そればかりがあったあの日から、
僕はきちんと襟を正して生きているのだろうか。